歴史余話

歴史の深層、歴史あれこれ 九州学院の卒業生でも意外に知らない学校の歴史エピソードやこぼれ話などをご紹介します。

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第十話 夏目漱石と遠山参良

 1899(明治32)年7月中旬、遠山参良は第五高等学校英語科講師招聘の件で、当時の英語科主任であった夏目金之助(漱石)教授の面接を受けるため、長崎から熊本に赴いた。1896(明治30)年10月にアメリカのオハイオ・ウェスレヤン大学留学から帰国し、鎮西学館教師に復職していた遠山参良に五高英語科講師招聘の白羽の矢が立ったのである。漱石に遠山を周旋したのは、五高英語科の木村邦彦教授であると推察される。木村は遠山と鎮西学館の同窓で、遠山の3年後輩に当たる。
 『第五高等学校一覧』の職員録(明治32年9月末現在)によると、五高の日本人教師で外国の大学から学位を授与されているのは木村と遠山の二人だけで、木村がテンパレンス大学(アメリカ)から「哲学士(Bachelor of Philosophy)」、遠山がウェスレヤン大学から「理学修士(Master of Science)」を授与されている。5年間の留学で漱石も敬服するような流暢な英語を身につけた遠山を、木村が漱石に直接周旋したことは想像に難くない。
 漱石は、同僚の山川信次郎(漱石の一高時代の同級生で英文学者)が第一高等学校に招聘されることになったため、その後任を探していたのである。山川は、漱石と連れだって明治30年末から正月にかけて小天温泉に『草枕』の旅をしたり、一高教授転出が決まった後の明治32年9月に『二百十日』の旅をしたりするような、互いに胸襟を開ける間柄であった。遠山を五高で面接した漱石は、その山川の後任として即決した。この時遠山(慶応2年1月11日生れ)は、漱石(慶応3年1月5日生れ)より1歳年長の33歳、メソジスト派の青年キリスト者であった。8月7日、遠山は五高英語科講師嘱託として赴任し、翌1900(明治33)年1月22日、五高教授を拝命すると、龍南会の弁論部長として手腕を発揮。花陵会(五高キリスト者青年会)の中心的指導者としても尽力した。
 1900(明治33)年5月、漱石は英語研究のため、文部省第一回給費留学生として、満2ヶ年のイギリス留学を命じられる。6月20日、留学の辞令を文部省から受領した漱石は、英語科主任教授の後任人選に取り掛かる。漱石は遠山の語学力と人望を見込みしきりに勧めるが、遠山は頑なに拝辞する。簡単に口説き落とせる器ではない。そこで漱石が機知を働かせ、「遠山さん、英語の主任になるような人物は余ッ程の馬鹿か阿呆者だろうね」と言った途端、「では僕が引き受けた」と言って受諾した遠山の虚心坦懐ぶりが伝えられている。
 7月上旬、一日支店(現・松の井旅館)で漱石の送別会が催された。これは、その頃の記念写真である。前列右が羽織袴の漱石、前列左が英語科同僚の奥太一郎教授、後列左が詰襟姿の遠山参良教授、後列右が五高学生・木村鎮太(?)か。
 明治33年7月18日か19日に漱石は、妻鏡、長女筆と共に、大洪水直後で汽車不通の箇所を徒歩で熊本市を去り、イギリス留学のため東京市に向かった。
 明治34年5月7日、漱石はロンドンから遠山へ『目録』(不詳、英文学関係か)を送り、5月29日には遠山から漱石に手紙が届く。その後、留学中の漱石と遠山は手紙で遣り取りをしている。

遠山先生を囲んでの花陵会特別伝道記念写真

漱石英国留学前の送別記念写真

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