歴史余話

歴史の深層、歴史あれこれ 九州学院の卒業生でも意外に知らない学校の歴史エピソードやこぼれ話などをご紹介します。

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 第十九話 九州学院 苦難の時代

 今年は戦後70年という節目で、テレビや新聞等で色々な当時の様子が報道されている。第二次対戦の前から九州学院はミッション・スクールということで多くの苦難の道を辿った。
 1943(昭和18)年には文部省令による中学校の改革時に九州学院の校名が認められず、やむをえなく「九州中學校」と改称された(詳細は歴史余話第七話)。
 チャペル(講堂)の屋根の上に掲げられていた十字架は、時期は記録にないが外された。
 運動場の周囲は芋畑となり、校舎のそばには防空壕が掘られた。運動場では東端の講堂の前から西の寄宿舎の方に向かって約100メートルをグライダーの滑空訓練も行われていた。
 上級生は鹿児島の鹿屋や、菊池台地の花房飛行場の造成作業に動員された。低学年の中学1・2年生は熊本近郊の農村に麦刈りや田植えなどを泊り込みの作業をした。芋畑は校庭の他に郊外の農地にも植付けに行った。

騎兵隊通り(現九学通り)を
闊歩する生徒たち

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 戦争が激しくなると上級生は航空機製作の工場などに動員され授業はなくなった。空襲により工場が爆撃されると工場疎開として九学の体育館にも旋盤などの機械が運び込まれて工場となった。

 しかし、九学の生徒たちは明るく学校生活を楽しんでいたことが次の先輩の回想録でもよく分かる。旧制28回卒業生の中園達哉氏の「九州学院時代の回想」は、その様な時代の貴重な体験の記録である。

◎九州学院時代の回想(旧制28回 中園達哉氏)

勤労奉仕

 3年生の頃から稲刈り、麦刈り、帯山練兵場の片隅を開梱してのカライモ植え。
 昭和16年の時、阿蘇の根子岳の麓の小川に砂防堤を1年生から5年生まで学院あげてテントを張って参加し完成させた。

ズボンのポケット

 ズボンのポケットは駄目、新調のものは初めからポケットは無かった。古いものは縫い潰して着用していた。兵隊は寒空の戦地で戦っているのに、中学生の分際でポケットに手を入れて行動するとは何事かと云う事だったのだろう。
 4年生の冬、下級生から借りて履いたズボンにポケットがあり柔道のU先生からビンタを頂戴したことがある。後にも先にも九州学院の先生から体罰(昔はこんな言葉はなかった)を頂戴したのはこれだけ。

隈府までの行軍

 背嚢(ランドセル)に、石を6キロ入れて背負い、夜中の12時に校庭に集合して12時半に出発、隈府(菊池)まで15里(60キロ)往復行軍。7時に隈府着、菊池神社に参拝して9時に隈府発、3時に生徒の帰宅の便を考えてか清水町の室園で解散。
 背嚢に石を入れたのは4・5年だけ、3年以下は布製の背嚢で石を入れることに背嚢が耐えられなかった。

出征兵士の見送り

 寄宿舎生は出征する軍隊を見送るために、大学病院の辺りの軍用道路(産業道路)まで動員された。寄宿舎生はめったに夜間外出が出来ないので喜び勇んで出かけた。その帰りのいたずらが楽しみで、道路脇の家の塀に乗せてある牛乳瓶を隣に置いたり、表札を他所のものと付け替えたり(決して盗みはしなかった)していた。

制服

竹製の帽章

 黒いKGマークの帽子、革製の鞄は私たちで最後だった。足にはゲートルを着用で登校しなければならない、寄宿舎から1分で着く校舎までもちゃんと着用した。下級生は戦闘帽に九学マークの記章となった。

クリスマス

 今でも驚くような、クリスマスの夜の食事には七面鳥が出されていた。

校舎

西日本一を誇った
総タイル張りのプール

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 校内に雨天体操場、講堂、図書館、階段教室、プールが有ったのは九州学院だけだったと記憶する。
 教室には暖房が3年生まであった。4・5年次は午前中か途中で中止になった。

中園氏は昭和13年の入学で昭和18年3月卒業と戦中前期に在学して自由闊達な雰囲気も満喫されるとともに、後半は戦時色濃厚な時代であったが九州学院らしい雰囲気の中で過ごしてこられたようだ。

みなさんがご存知の九州学院の歴史をお教えください。

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