歴史余話

歴史の深層、歴史あれこれ 九州学院の卒業生でも意外に知らない学校の歴史エピソードやこぼれ話などをご紹介します。

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 第ニ十話 学院杯カップが機銃掃射で貫通される



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 歴史資料・情報センターに展示してある古い優勝カップには、表から裏側へ向けて、1.5cm大の弾丸の抜けた穴が空いている。
 この優勝カップは1931(昭和6)年の創立20周年記念(10月1日~3日)の2日目の体育デーで、校内野球大会の優勝カップとして作られたものである。武道大会、庭球大会、バスケットボール大会や絵画展覧会等が開催されて、平和で大変にぎやかな20周年だったことがうかがわれる。

 1944(昭和19)年には健軍にあった三菱航空機製作所で製造される軍用機のための飛行場(旧健軍飛行場、現在の日赤病院)建設に1・2年生は動員され、砕石を滑走路に手で一つずつ埋め込む作業に動員されていた。後日知ると米軍はサイパン等ではブルーザーなどの重機を使って飛行場を建設していたのに比べると雲泥の差がある。この頃から上級生は学校での授業はなく、直接健軍の工場等に通い飛行機の製造に従事していた。
 この年の11月21日に花園町柿原に爆弾が投下されたのが、熊本への空襲の始まりで、翌年になると次々と来襲にあった。3月18・19日には健軍の三菱航空機工場が爆弾攻撃をされ、市内の学校その他へ工場疎開も行われた。九州学院にも体育館に旋盤等が持込まれた。
 1945(昭和20)年7月1日夜半から2日未明への大空襲では熊本市内は壊滅的な被害となった。学院の1年・2年生は7月2日から農家へ田植えの勤労奉仕に行く予定で登校した生徒もいたがもちろん中止となった。


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 8月10日(金)の米軍機の機銃掃射により機銃弾が「學院長盃」の優勝カップを貫通した。これは騎兵隊(現在の開新高校)やその東側の13連隊などの兵舎を狙った攻撃の流れ弾であったと思われる。
 被弾した優勝カップは当時校内の各種行事での優勝者に持ち回りで授与されていたものである。現在この優勝カップは、100周年記念歴史資料・情報センターに保存展示され、戦争の悲惨さをしのばされている。

 この機銃掃射の時に、当時の4年生の1名が不運にも銃弾による大腿骨貫通で亡くなり、1名は重傷を負った。
 8月10日は当時、一学期の最終登校の日であり、なんと終戦の5日前であった。当時、上級生は軍需工場へ、下級生は農家の田植えや稲刈り・麦刈り等に動員されていて、夏休みは8月11日から8月31日の21日間だった。また校庭は、防空壕と唐芋畑や麦畑となっていて現在の全天候型グラウンドからは想像も出来ない様子であった。

 7月1日から2日未明にかけての熊本大空襲に依る被害状況報告によると

1. 学校 大型1個小型2個ノ焼夷弾落下セルモ之ヲ完全ニ消火シ被害ナシ
2. 職員 全焼 8名
3. 生徒 全焼 184名 半焼 7名 下宿全焼 19名
   焼死者 4名(内1名は7日後死亡)
   負傷者 2名
4. 職員生徒ノ防空佳話
(イ) 7月1日午後11時半頃ノ警戒警報発令ト共ニ学校ニ馳セ来リ学校防護ノ任ヲ完了シ2日早暁帰宅シ自家ノ焼失シアルヲ知リタル職員生徒数名アリタリ
(ロ) 2年生ニテ民防空ニ協力シ周囲ノ家ハ全部焼失セルモソノ生徒ノ防火セシ家ノミ火災ヲ免レ得タル家アリ


 戦争が終わり、この年の2学期からは普段の授業になったが、秋の頃には米軍の駐留の受入のため清水町の旧幼年学校(現自衛隊)の跡地に隊舎の床磨きに動員されたこともある。九学通りの焼跡には道端で戸板にさつま芋を潰した団子や米軍から流れてきたガムなどを置いて売っていて、学校の帰りに買えるのが喜びだった。

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