歴史余話

歴史の深層、歴史あれこれ 九州学院の卒業生でも意外に知らない学校の歴史エピソードやこぼれ話などをご紹介します。

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第三話 米国日系人収容所からの入学生

 第二次世界大戦下の1944(昭和19)年に入学した生徒の池崎正(旧35回卒)は、当時アメリカのカリフォルニア州に在住していたが、第二次世界大戦の開戦により日系人ということで強制的に内陸部のアーカンソー州の日系人収容所に持てるだけの荷物を持って収容された。
 仮設の収容所は板張りの簡素ものであり、壁には隙間があり隣の部屋が丸見えのバラックだった。椅子も机もなく材木を拾って手作りで家具を作った。また有刺鉄線で外界と隔離され、銃口を内側に向けた監視塔から監視されていた。そのような中で収容所の中の小学校を卒業した。
 日本はアメリカなど連合国と開戦し、交戦国に残された外交官や民間人の帰国が問題となり、アメリカの国務省が中立国のスイスを経由して、日本の外務省に交換船の運行を打診し交渉を行った。その結果、アメリカおよび近隣国との間については1942年6月と1943年9月の2回、イギリス等との間には1942年8月の1回、合計3回の交換船の運行がなされた。
 彼はその第二次の戦時交換船で帰国した。1943(昭和18)年にスウェーデンの客船グリップスホルム号でニューヨークを出航し、ブラジルのリオ・デ・ジャネイロ等に寄港後、大西洋回りで交換地ポルトガル領ゴア(現インド)に入港した。
 ここで日本からの交換船帝亜丸に、彼を含む1、525名(外国人8名を含む)が乗船した。10月21日ゴアを出港して11月14日に横浜港に上陸して日本に送還されるという数奇な時代の荒波に翻弄されて帰ってきた人である。

帝亜丸

 彼は1944(昭和19)年4月に当時九州中学校と称していた九州学院に入学し、在学中は戦後に再開された野球部の名ショートで三番バッターとして華麗なプレイで大活躍した。卒業後は再びカリフォルニアへ帰った。
 ちなみに第一次交換船は浅間丸で、昭和17年6月17日に横浜港を出港している。第三次交換船は日本の敗戦により中止となった。交換船は船体に白で十字を描き、夜間は照明をしてはっきり識別されるようにした。
 帝亜丸は、昭和16年12月8日にサイゴンで日本海軍に徴発されたフランス客船アラミスで、昭和17年4月より日本郵船に運航を委託されていた。その後、昭和19年8月フィリッピンのルソン島沖で米軍により撃沈された。

(帝亜丸の写真はGoogle 悲運の戦時日本商船(14)より引用)

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