おしらせ

一覧へ戻る

百周年の創立記念日 蒲島知事が特別講演 「夢限りなく」

[2011-01-18]

 九州学院は1910年の119日に国から学校設立が認可され、1911年の4月に122名の入学生を迎え開校しました。

毎年、創立記念日の1月19日に、外部から講師を招いて講演会を開いています。

今年は一日早い18日に、蒲島熊本県知事を特別に講師としてお迎えし、創立100周年の記念講演会を行いました。

講演会当日は朝から大変冷え込み、ピーコートの着用も特別に許可をし、会場となった体育館の中に一部ストーブを持ち込むほどの寒さとなりました。しかし、心をこめて大変熱く語られる蒲島熊本県知事の情熱と会場の熱気で、寒さを忘れさせてくれるような素晴らしい講演会となりました。

 

 

 

DSC04587.JPG

DSC04591.JPG以下は講演の要旨です。

【演題】「夢限りなく」

【講師】蒲島郁夫熊本県知事

日時】1181011

 

 私は1947年、熊本県山鹿市に生まれました。現在63歳です。子ども時代は大変貧乏で、9人兄弟の7番目、20畳位の家に祖父・両親を含め12人で暮らしていました。幼少時から本をよく読み、牧場主(阿蘇のふもとで牛を飼う)、小説家、政治家(プルタルク英雄伝が好きで、カエサルにあこがれた)のいずれかになる夢を持っていました。鹿本高校時代は230人中200番位でほとんど勉強はしませんでした。高校卒業後、農協(現在のJA鹿本)に就職。20歳の時、青年弁論大会に出場し、「自分は平凡な男だが非凡な人生をおくりたい」と主張したことが自分の人生について深く考える機会となりました。

「阿蘇のふもとで牛を飼うという夢を実現するためには、知識と資金が必要になる」と考え、21歳の時アメリカでの農業研修に参加しました。シアトル郊外のモーゼスレイクで3ヶ月間英語を勉強した後、オレゴン州でメキシコ人労働者と一緒にリンゴの収穫作業を行いました。ビッグベンで更に研修を続けた後、アイダホ州に配属され牛・羊500頭の牧畜作業を行いました。湖が美しいところでしたが、真っ白な雪に覆われたブリザード(吹雪)の中で農作業に従事するのは大変つらいものでした。1年間の研修ののちネブラスカ大学で3か月間勉強することができましたが、「学問は農作業よりも楽だ」と考えるようになり、来年も研修生の通訳としてアメリカに戻ってきたいと雇い主のクリントン・フーバーさんに願い出ました。23歳のとき帰国し準備にとりかかりました。渡航費35万円は義兄が出してくれることになり、推薦状は高校時代の先生が英語で書いてくれたが、婚約していた恋人を説得するのが大変でした。しかし、24歳でネブラスカ大学の入学試験(英語と数学)を受けたが不合格でした。婚約者を何とか説得して描いた留学計画だったので大変落ち込みました。絶望の淵にいたとき、研修時に世話になったハドソン先生がアドミッション・オフィサーとして6か月間の仮の留学期間を与えてくれることになりました。せっかくいただいたチャンスなので必死に勉強し、全教科AでGPA(グレード・ポイント・アベレージ)4.0を取得しました。375人いた学生のうちGPA4.0を取得できたのは10人しかいなかったので、奨学金と授業料免除の特典を受けることができました。

25歳でネブラスカ大学1年生になったとき、婚約者と結婚しました。ネブラスカ大学では繁殖生理学のDr.ジーママンのもとで豚の精子の保存法に関する研究を行いました。28歳でネブラスカ大学を卒業しましたが、2人の子どもを育てながらよく勉強に励んだと評価され大学院に進学することを勧められました。このとき、幼少時の頃の政治家になる夢を思い出し、政治学の研究に方向転換することを決めました。このとき友人がハーバード大学の学部長をしていたので、ハーバード大学の大学院に願書を出しました。ハーバード大学は、名門でお金持ちでないと入学できないので、熊本の小作農の息子で2人の子どもを持つ男が入学できたのは大変まれなケースだったと思います。28歳から32歳までハーバード大学大学院の政治学科で学びましたが、この間サミュエル・ハンチントン先生(「文明の衝突」という著書で有名)、指導教官のシドニー・バーバー先生、エドウィン・ライシャワー先生(元駐日大使)に大変世話になりました。シドニー・バーバー先生の授業のとき、「ピースフル・キンダム」という本を読み発表する課題が与えられました。大変分厚い本だったので誰も志願する者はいなかったが、「私がやります」と志願し、1週間後にみんなの前で発表しました。それから周囲の評価があがり友達がたくさんできました。人生には、無理を承知で手を挙げて「私がやります」といわなければならない場面があり、それが次のステップを開くことになるのではないでしょうか。ライシャワー先生からはアジア研究所所長のクレンツ先生を紹介され、2年間の奨学金延長を推薦してくれました。このときの対応の早さには驚きました。

ドクター論文は39か月で書き上げました。これは帰国時の航空券5人家族分を半年前に購入していたのを無駄にしたくなかったので必死に書き上げましたが、それが短期間の論文完成を可能にしたといえるでしょう。このように自分自身にプレッシャーをかけることが人生において必要なときがあります。帰国後、筑波大学と某名門私立大学から話がありましたが、筑波大学の話を断り、某名門私立大学にお願いしました。しかし、教授会で3分の2の賛成をえることができずだめでした。おそらく、アメリカ時代の派手な服を日本でも着用していたことと、農学出身という履歴が政治学の分野で受け入れられなかったことの原因だと思います。仕方なく、1年間大阪の文化アパートで就職浪人の生活をおくりました。その後、筑波大学が再度受け入れてくれたことにより、33歳から50歳までの17年間筑波大学で研究生活をおくることができました。

50歳の時、東京大学総長の佐々木さんから日本政治学のポストが空いたのでどうかとすすめられました。家族からは東大で苦労することが予想されるので反対されましたが、最終的には一人で東京大学法学部に転任することを決め、11年間東大で働きました。60歳の時、潮谷前熊本県知事が出馬しないので後任としてどうかとすすめられました。すでに4人が出馬していたし、選挙まで2か月半しかなかったことと現職教授が知事選に出馬することは前例がないので、家族と東京大学からは反対されました。しかし、幼少時にカエサルにあこがれていたことを思い出し、61歳の誕生日の日に出馬を決心しました。

現在、熊本県知事として3つの課題の解決に取り組んでいます。一つ目は1兆7百億円の熊本県の財政赤字の解消、2つ目は川辺川ダム建設の白紙撤回、3つ目は水俣病問題の特措法による全面解決です。財政再建については、県知事の月額124万円の給与を100万円カットすることから始めました。前年度の税額10万円がかかってきたので、手取りは14万円になってしまいました。しかし、自己犠牲の効用からか、県庁職員も給与カットに協力してくれることになりました。この他、県知事として「夢のある教育」、「時習館構想」を立ち上げ実行しています。「夢のある教育」というのは、成績優秀なのに経済的に進学が困難な学生に奨学金を支給するというものです(夢プラン)。「時習館構想」というのは私学文書課を私学振興課にかえ、成績優秀者にはハーバード大学などアメリカのアイビーリーグの大学に知事からの推薦をするというものです。数学ができて文武両道のユニークな人材を世界に飛び立つ人材として育てたいのでぜひチャレンジしてみてください。

最後に「1.人世の可能性は無限大、2.逆境の中にこそ乗り越えたときの喜びが待っている、3.夢を持ち、夢に向かって乗り出すことが大事、4.夢の実現に向け120パーセントの努力をすることが大事」という4つのメッセージを贈ります。

Above the Expectation(期待度を超えて!)”

「人生におけるそれぞれの舞台で、120%の努力を持って逆境を乗り越えていく」

これが自己実現ということになるのではないでしょうか。

 

【質疑】

Q1.蒲島県知事が自分の人生を1文字で表すとしたら? 

A1.熊本県知事としては飛躍の「飛」をあげたが、自分の人世なら「夢」ということになるでしょう。

Q2.農業の自由化の中で、熊本県の農産物が生き残るためにはどうしたらいいか。

A2.農産物自由化の問題は難しい。しかし、自由化の波は避けられないから、事前に日本の農業のビジョンを先に描くことが必要。熊本県は水がいいから、熊本の農産物はすでに世界1で競争には勝てると思う。でも、それを広く知ってももらうことが大切。

Q3.蒲島県知事が苦しい時にも「夢」を持ち続けることが出来たのはなぜ?

A3.「夢」があったからこそ、逆に苦しいことにも耐えることができたのではないか。それとそれを支える家族の存在が大変大きい。

【生徒会長の謝辞】

「夢限りなく」という今日の講演に大変励まされました。今年100周年を迎える九州学院の今というこの時の中で学べることの誇りと自覚を持ってこれからも努力していきます。